「太宰府天満宮」に参詣する前に知りたいこと
みなさま、こんにちは♪
九州福岡の観光の最初を有名な「太宰府天満宮」にしました。
しかし、私は「太宰府」も「天神様」も「菅原道真公」も殆ど知りません。
最低限のことを知って、観光の第一関門を乗り越えたいと思いました。
そして、次の5点の疑問を知りたいと思いました。
夫の実家の氏神様は「天満宮」で梅の紋章だそうです。
子どもの頃から境内で遊んでいたそうです。
1,100年以上前の歴史的背景など知らないことが多いですよね。
しかし何も知らないと、せっかくの遠路の観光も感動が希薄になると思いました。
「大宰府政庁」と「太宰府天満宮」とはどう違うのかなぁ?
いろいろな資料を読んでいますと「大宰府」、「大宰府政庁」、「太宰府」、「太宰府天満宮」の記述があります。
私は「太宰府天満宮」しか知りませんので、この違いを知りたくて調べてみました。
「大宰府」、「大宰府政庁」とは?
「大宰府」という名前は、「天皇の命をうけて政治をする役所」という意味だそうです。
「大宰府政庁」は、大宰府(32ヘクタール)の中心地に、奈良の平城京をモデルに「西の都」として建設され、儀式や政治の最高意思決定が行われました。(大宰府政庁跡/国指定特別史跡)
大宰府は、7世紀後半から12世紀後半にかけて500年間、九州を統括し、外交の窓口の役割を果たしました。
大宰府は、古代律令制下(奈良・平安時代)に、特に九州の位置的重要性(外交と防衛の最前線でありアジア大陸の窓口としての機能)を考え置かれた役所です。
鎌倉幕府の成立により、律令制下の「大宰府」はその機能を停止しました。
古代律令時代の役所と、その遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されるようになりました。
「太宰府天満宮」とは?
「菅原道真」公は右大臣の職でしたが、藤原時平(左大臣)は当時の醍醐天皇に「道真は天皇を廃帝させる陰謀を企てている」と伝え、無実の罪を着せられました。
時平の言葉を信じた醍醐天皇により、道真公は左遷され大宰府に送られてしまいます。
2年後に、道真公は太宰府で不遇の死を遂げます。
その後、災害などが相次いで起こり、人々はそれが道真公の祟りだと恐れ、鎮めるために天神として祀りました。
道真公が埋葬された御墓所の上に、905年に祀廟が創建され、919年には勅命によって立派な御社殿が建立されました。
その後、焼失等を繰り返し、「太宰府天満宮」の御本殿が現在の形になったのは1591年です。
「太宰府天満宮」には、なぜ沢山の受験生が行くのかなぁ?
太宰府天満宮は、京都から太宰府に左遷された「菅原道真」公が亡くなった場所に建てられました。
その後、冤罪が晴れ、御霊信仰として社殿に祀られ、多くの信仰を集めました。
道真公は、幼いころから学問や詩歌の才能を発揮し「神童」と呼ばれました。
学者、漢詩人、政治家と多彩な才能を持った道真公は、870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官します。
天皇からの信頼も厚く、「遣唐使の廃止」を進言したことでも知られています。
道真公は天満宮に祀られた後、「天神様」と呼ばれ、学問の神様として祀られ定着しました。
年末年始や受験シーズンは、受験生とその関係者で大変な賑わいです。
中でも天満宮によく見られる牛の像は、撫でると願いを叶えてくれる像として知られています。
このような経緯で「学問成就」の神様として受験生に絶大な人気を誇っています。
菅原道真公の御霊(怨霊)信仰とは何ですか?
激動の奈良時代から平安時代にかけて、相次ぐ政変の中で悲運にして命を失う皇族・豪族が続出しました。
人々は天変地異や疫病流行などは、その怨霊によると考え、彼らを「御霊神」として祀りました。
道真公が怨霊となった経緯
菅原道真公は朝廷の最高職である右大臣に就任し、藤原氏と並ぶ権力の絶頂期を迎えました。
そんな道真公の出世を快く思わない人も多く、藤原時平(左大臣)はその筆頭でした。
時平は醍醐天皇に「道真は天皇を廃帝させる陰謀を企てている」と伝え、道真公は無実の罪を着せられました。
時平の言葉を信じた醍醐天皇に、道真公は左遷され大宰府に送られます。
囚人同様の扱いで幽閉された道真公は、失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げます。
その後は道真公に代わって藤原時平の覇権が続くはずでしたが、時平は39歳で突然亡くなります。
さらに、宮廷内で落雷が発生し、複数の貴族が命を落とします。
また醍醐天皇とその皇太子までもが、病で立て続けに亡くなりました。
これらの一連の出来事は、道真公の怨霊による祟りであると恐れられ、死後にも関わらず太政大臣や左大臣の位を与えて怒りを鎮めようとします。
それでも災いが止まらないため、最終的に道真公の魂を神として祀るべく、都に北野天満宮が建立されます。
道真公は落雷を起こしたことから「雷神」として、また「天神様」としても祀られました。
時と共に怨霊の恐ろしさは弱まり、代わりに「学問の神様」として崇められるようになります。
菅原道真を祀った天満宮は全国に数多く存在し、現在では受験の合格祈願の名所としてすっかり有名になりました。
日本三大怨霊とは?
私は「太宰府天満宮」にお参りするにあたり、天満宮の存在の本質は「怨霊信仰」を知る必要があると感じました。
平安時代に怨霊信仰があったと歴史で習ったような記憶があります。
映画で野村萬斎さん主演の「安倍晴明」などを見て楽しみました。
中国映画でも、「陰陽師」をネットフリックスで見ました。
しかし「怨霊信仰」は、現代の私たち日本人には難しい概念です。
いろいろ調べていく中で一番分かりやすかったのが、「THE GATE 史上最恐!日本三大怨霊」です。
「THE GATE」さんは、訪日外国人向けの旅行サイトです。
実に分かりやすい解説でした。
皆様も関心のある方は見てください。
三大怨霊は時代順に「菅原道真」「平将門」「崇徳上皇」と言われています。
それぞれ「右大臣」「武将」「天皇」という立場があります。
内容もそれぞれ「国家権力と天皇がらみ」があるようです。
私は、四国香川を旅した時に、白峰寺(四国88箇所霊場の第81番札所)に参詣し、歌人の西行が崇徳天皇に捧げた鎮魂歌の石碑を見て、崇徳上皇の壮絶な怨霊信仰を知りました。
明治天皇が都に社殿を建てて、上皇の霊を迎えに行った使いが、帰った翌日に天皇も参詣され、その翌日に慶応から明治(武士の世から天皇の世)に変わったことを知り、歴史の不思議さを感じました。
近辺は小高い山の中腹で、自然に囲まれた静かな寺院で瀬戸内海を望むことができます。
寺院の中に崇徳陵を遥拝する場所があり、西行の歌碑がありました。
穏やかなお寺なので、四国の金比羅さんなどに旅行されたら、近いので是非訪ねてみてください。
「飛梅」とは何ですか?
太宰府天満宮の御本殿向かって右手にあるのが御神木「飛梅」です。
菅原道真公は、京都から大宰府へいわれのない罪で左遷される折、自邸の梅の木に
「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と歌で別れを告げられました。
道真公を慕った梅の木は、一夜にして大宰府まで飛んできたと伝えられます。
以来、御神木として大切にされている飛梅は、極早咲きの「色玉垣」という品種です。
毎年境内の梅に先駆けて花を咲かせて春の訪れを告げます。
(太宰府天満宮)
現代語に訳すると、
「東風が吹いたら(春が来たら)芳しい花を咲かせておくれ、梅の木よ。
大宰府に行ってしまった主人(私)がもう都にはいないからといって、春の到来を忘れてはならないよ」
とされます。
「飛梅」は樹齢1000年を超える白梅です。
飛梅伝説の現実的経緯としては、道真に仕えて大宰府にも同行した味酒保行が、株分けの苗木を植えたという説があります。
また、道真を慕った伊勢国の白太夫という人物が、大宰府を訪ねる際、旧邸から密かに持ち出した苗木を献じたとの説があります。
1,100年前のことが、今のことのように語られ、その息吹を馥郁と身に感じます。
「梅ヶ枝餅」とは何かなぁ?
太宰府天満宮は、参道に飲食店や土産店が沢山あり観光客で賑わっています。
多くのお店で売られている、小豆あん入りの餅菓子「梅ヶ枝餅」は太宰府名物です。
いわれは、道真公が太宰府に左遷された時、安楽寺の門前でお婆さんが粗末な餅を売っていました。
お婆さんが元気を出しなさいと悄然とした道真公に餅をあげ、その餅が道真公の好物になりました。
道真公の死後、お婆さんが餅に梅の枝を添えて、墓に供えたのが始まりとの説があります。
また、道真公が軟禁状態で食べることにも困っており、お婆さんは格子に手が届かないので、梅の枝の先に餅を刺して、差し入れたとの説があります。
私も4個の梅ヶ枝餅を買いました。
ホテルで熱いお茶を沸かして「道真公を偲びながら」美味しいお餅を夫と2個ずつ食べるのが楽しみです。
「太宰府天満宮」の概略
太宰府天満宮は、「学問・至誠・文化芸術・厄除けの神様」として崇敬される菅原道真公を御祭神として祀ります。
全国約12,000社の天満宮の総本宮で、御墓所として唯一無二の聖地「菅聖庿」であり、九州を代表する観光地のひとつです。
道真公の学問分野に代表されるご事績を、多くの人が慕い「学問の神様」「雷神」「天神様」として崇敬を集めるようになりました。
一年を通し、受験生をはじめとする約1,000万人もの参拝者が訪れます。
京都から追従した道真公の門弟の味酒安行が、今の地に御遺骸を葬り、祠廟(御墓所)を創建したのが「太宰府天満宮」の起源であり、1,100年以上の歴史があります。
西鉄 太宰府駅に着く
宿泊している「東横イン福岡天神ホテル」から、西鉄の天神駅まで徒歩で5分ほどでした。
天神駅から廿日市駅で降りて、太宰府駅行きに乗り換えました。
この辺りから、インバウンドや観光客の方々がほとんどになりました。
太宰府駅に着きました。
11:00ですので軽く昼食を取ることにしました。
駅の横に麺類屋さんが並んでいます。
一蘭ラーメンにインバウンドの方々が足早に入りました。
わざわざ太宰府に来てまで入るとは、一蘭は人気が高いと思いました。
私たちは一蘭の隣のそば屋さんに入りました。
一番目の客でしたが「ざる蕎麦」を二つ注文しました。
さすがに観光地でも「博多の味」で美味しかったです。
700×2人前=1,400円を現金で支払い出ました。
参道は午前中にもかかわらず、まあまあ人通りが多かったです。
100メートルくらい歩いたでしょうか、大きな鳥居を入りました。
ここがご結界で、太宰府の神域に入るのでしょうか?
砂庭も掃き清められ、空気が澄んでいるように感じられました。
右手にトイレがありましたので、前もってすませました。
とても美しいトイレでした。
遠くから来られたインバウンドの方々も「日本の誇るおもてなしトイレ」に喜ばれると思いました。
鳥居から奥に入り、突き当たって、左に曲がりました。
丸い太鼓橋を渡りました。
写真を撮られるインバウンドの方々でいっぱいでした。
御手水舎には驚きました。
六月は紫陽花の季節です。
赤、青、ピンク、白とあじさいの花でいっぱいでした。
太宰府の「おもてなしの心」を感じました。
御本殿(仮殿)緑の神殿に参詣する
朱塗りの門を入って、また驚きました。
桃山文化を象徴する豪華絢爛の朱塗りの本殿が無いのです。
「飛梅」も見えません。
あるのは、真向かいに「屋根に草木が植った神殿」らしきものがあるのです。
よく見ると、緑の神殿らしきものの前で、皆さんがお祈りをしているようです。
お賽銭箱もあるようです。
緑の神殿の裏に回ってみました。
少し古くなったような神殿がありました。
きっと伊勢神宮のように、何年かに一度行う「式年遷宮」ではないかなと思いました。
緑の神殿とは「神様もSDGsかな?」と思いました。
今晩のコンサート予定に「福岡アクロス」もこのような建物ですので、あやかられたのかなぁと思いました。
ネットで調べましたところ、太宰府天満宮の御本殿(重要文化財)は、124年ぶりの「令和の大改修」に伴う、特別な「仮殿」を建設されたそうです。
令和5年5月より3年をかけて改修され、令和9年(2027)に、道真公が薨去なされてから1,125年という大きな節目に式年大祭を行われるそうです。
「仮殿」は、著名な藤本壮介さんが設計されました。
「コンセプト」は、飛梅伝説から着想を得て、鎮守の杜の豊かな自然が御本殿前に飛翔し、仮殿としての佇まいをつくるとしたそうです。
私は良い時期に来たと思いました。
完成の暁には、ぜひ参詣して立派な重要文化財の社殿でお祈りをしたいです。
緑の神殿の意味が分かりましたので、納得してお賽銭をあげてお祈りしました。
今年は孫が二人、受験生なのでお守りを二つ購入して送ってあげることにしました。
塾の先生が代表して遠くからいただきに来ると聞いたことがあります。
お守り売り場に行き、小さくて感じの良いお守りを、紺色とピンクの二つ買いました。
「太宰府天満宮 宝物館」の見学
帰り道の左側に「太宰府天満宮 宝物館」があります。
高齢者は入場料が半額で、二人500円で入りました。
綺麗な映像が流れていましたが、人が多くて入れませんでした。
道真公に関する、書画、武具などが陳列してありました。
なかでも「天満宮縁起画伝」が八幅かけてありました。
江戸時代の天満宮の社家である、満盛院に伝来するものだそうです。
場面は細かく複雑に分割され、全114図が上から下へ並べて描かれています。
道真公の生まれから、神童と呼ばれた才能、右大臣への出世、無実の罪、太宰府に左遷、非業の死、冤罪が晴れる、太宰府の御墓所に神殿建立、都に北野天満宮が建立、「学問の神様」「雷神」「天神様」として崇められるようになったことなどが記されていると思いました。
残念ながら、目がよく見えませんので、詳しく追うことができませんでした。
帰り道の参道のお店で「梅ヶ枝餅」を買いました。
重たい鉄の器で焼き上げ、職人さんも汗だくだくでした。
疲れてしまいましたので、太宰府駅からタクシーで西鉄二日市駅まで向かいました。
二日市駅から電車で天神駅に着きました。
無事にご参拝ができて🤗ありがとうございました。
まとめ
私は、福岡で最も有名な観光地の一つである「太宰府天満宮」のことを殆ど知りませんでした。
最低限の、下記の5点の疑問を知って参詣したいと思いました。
大宰府は、7世紀後半から12世紀後半の古代律令制下(奈良・平安時代)に、九州の統括と外交と防衛の役所です。
「大宰府政庁」は大宰府の中心的建造物で、重要な祭儀と意思決定の政が行われました。
「菅原道真」公は、無実の罪を着せら大宰府に左遷され、不遇の死を遂げます。
その後、災禍が相次いで起こり、人々は道真の祟りだと恐れ、鎮めるために道真公が埋葬された御墓所の上に、御社殿が建立され、「太宰府天満宮」の御本殿が現在の形になったのは1591年です。
古代律令時代の役所と、その遺跡に関するダザイフは「大宰府」、中世以降の地名や天満宮については「太宰府」と表記されます。
時系列的な歴史が分かり、理解することができました。
道真公は、幼いころから「神童」と呼ばれ学者、漢詩人、政治家と多彩な才能を発揮され、870年に官吏登用試験で抜群の成績を修めて任官します。
道真公は天満宮に祀られた後、「天神様」と呼ばれ、学問の神様として祀られ定着しました。
年末年始や受験シーズンは、受験生とその関係者で大変な賑わいです。
このような経緯で「学問成就」の神様として受験生に絶大な人気を誇っています。
菅原道真公は、優秀が故に大いに出世し朝廷の右大臣に就任しましたが、大きなジェラシーを受けました。
藤原時平(左大臣)は、道真公に無実の罪を着せました。
時平の言葉を信じた醍醐天皇は、道真公を左遷し大宰府に送りますが、失意のうちにわずか2年で非業の死を遂げます。
その後に、災いが立て続けに起こり、道真公の怨霊による祟りであると恐れられました。
道真公の魂を鎮めようと、神として祀るべく、神殿が建立されます。
時と共に怨霊の恐ろしさは弱まり、代わりに「学問の神様」「雷神」「天神様」として崇められるようになりました。
太宰府天満宮の御本殿向かって右手にある、樹齢1000年の御神木「飛梅」のことです。
道真公が左遷される時、自邸の梅の木に「東風吹かば 匂ひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ」
と別れを告げられました。
道真公を慕った梅の木は、一夜にして大宰府まで飛んできたと伝えられています。
参道の多くのお店で売られている、小豆あん入りの餅菓子「梅ヶ枝餅」は名物です。
いわれは、道真公が太宰府に左遷された時、安楽寺の門前でお婆さんが粗末な餅を売っていました。
悄然とした道真公を不憫に思ったお婆さんは、お餅を差し入れ、道真公を元気付けたそうです。
これらのことが分かり、菅原道真公の気持ち、大宰府周辺の人々の気持ち、語り継がれた時代の人々の気持ち、現代の人々の気持ち、艱難辛苦に打ち込む受験生の気持ちが、年間1000万人の参詣者に表れていると感じました。
また宮司さんは、道真公から数えて40代目の直系の子孫であられると聞きました。
かけがえのない歴史と人々の心を、大切に後世に繋いでくださり感謝いたします。
私も、これらの心を持って参詣させていただき感動いたしました。
太宰府天満宮に関係される皆様に感謝申し上げます。
私は、6/20〜23まで、「福岡・佐賀」を旅しました。
この太宰府天満宮参詣の後、福岡アクロスでコンサートを楽しみ、屋台で夕食をいただきました。
「クラシックコンサート楽しみ方【シニア夫婦体験談】ベルリン交響楽団」
「福岡の屋台おすすめ【夫婦体験談】初心者が博多の味と人情を楽しむ」
を記しましたので、興味のある方はご覧ください。
皆様の旅のご参考になれば幸いです。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
See you(^^♪
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