みなさま、こんにちは(^^♪
私たち夫婦は70代前半のシニアですが、京都が大好きでよく旅をしましたが、「大原三千院」は行ったことがありません。
昨年、山口県を旅したときに下関を訪れ、有名な「春帆楼」でふぐのコースを食べました。
隣の赤間神宮にお参りをしましたら、壇ノ浦で敗れた平家の武将を祀っていました。
高倉天皇の皇后である「建礼門院 平徳子(平清盛の娘、安徳天皇の母)」は命が助かり、最後は大原の寂光寺で平家一門の菩提を弔って亡くなられたと聞きました。
また私たちが若いころ「京都〜大原三千院〜恋に疲れた女がひとり♪」の歌が流行り、京都を思い浮かべては口ずさんでいました。
京都は女性の憧れであり、その中でも多くの傷ついた心を癒す「京都大原」にどうしても行ってみたかったです。
偶然、新聞広告にツアーが出ており、高齢者でも大丈夫と思い参加しました。
比叡山の麓でもあり、田舎の坂道もありましたが大丈夫でした。
京都の巨大なパワースポットの凄さ、大原の癒しの力を体感しましたので記させていただきます。
シニアの皆様の「旅に行く意欲」が高まり、参考になりましたら幸いです。
京都大原に着く
新門司港からフェリーに乗り、源平合戦の「壇ノ浦」を背に、瀬戸内海を昇り「屋島」、「福原」を経て大阪・泉大津港に着きました。
観光バスに揺られて北上2時間、比叡山の麓、大原の里に着きました。
バス駐車場からダラダラと歩いて、20分弱で三千院に着くそうです。
その木漏れ日の道すがらとせせらぎが、とても癒されて楽しいそうです。
大原女は、柴や野菜を頭にかついで、都に売りに行ったそうです。
800年の歴史があり、独特のカスリの着物姿は、建礼門に仕えた阿波内侍(あわのないし)が山仕事をする衣装が原点だと伝えられています。
大原は日本一の「紫蘇の里」だそうです。
大原女はシソなどの漬物も売りに行ったのでしょうか。
「三千院」は、天台宗の寺院で山号は魚山、ご本尊は薬師如来様、三千院門跡とも言われるそうです。
八世紀に、伝教大師・最澄さんが比叡山に居を構えたことに始まり、興亡極まる時代の中で流転を繰り返し、寺名も変わったそうです。
明治4年に、天皇から御宸筆「三千院」の勅額を賜り「三千院」と称され、現在の大原の地で1,200年の歴史を繋いでおられる古刹であるとガイドさんが話しました。
三千院に入場する
いよいよ三千院の入り口の「御殿門」の前に着きました。
九時の開門までしばらく待ちました。
盛況時には、多くの人々が押し寄せ見ることも大変だそうです。
客殿に入り、まずはトイレを探しました。
トイレの待ち合わせのところの澄んだ空気の中、線香の煙が立ち上っていました。
中庭にも美しい庭園があり、ツクバイが清水を湛えていました。
山中の遅い新緑が、力強く立ち上っていました。
第18代座主「元三大師」様は角大師とも言われ、霊験あらたかで、「おみくじ」を本邦で初めて作られた方でもあったようです。
聚碧園を観る
この庭園の名前は「聚碧園(しゅうへきえん)」と言います。
客殿よりの池泉鑑賞式庭園で、江戸時代の茶人・金森宗和の修築と伝えられています。
深い杉の木立を借景に、苔むす岩とせせらぎが織りなす深山幽谷の趣を醸し出し、心を清め癒します。
若者のグループが、写真を撮り、抹茶を楽しんでいました。
誰かが「どちらから来られましたか?」と尋ねたら、「中国です」と答えられました。
「遠くからですね、ゆっくり楽しんでくださいね」と若い旅人を労わりました。
宸殿を拝する
ここは「宸殿(しんでん)」と言われ、お寺の本堂に当たります。
後白河法皇が始められた宮中御懺法講を今に伝える道場で、御所の紫宸殿を想定して作られたそうです。
ご本尊は傳教大師作と伝えられる「薬師瑠璃光如来」様が御秘仏として祀ってあります。
思わず奥に向かって一礼しました。
往生極楽院でお参り
往生極楽院は、寺伝には10世紀に恵心僧都源信が父母の菩提のために建立したとあり、12世紀末に真如房尼が亡き夫(高松中納言藤原実衡)を弔うために建立したという史実もあります。
平安時代末期から大原の地にあった阿弥陀堂を、明治4年にこの地に移転し、三千院と往生極楽院は元は別々の寺院です。
阿弥陀三尊像は国宝であり、船底型の天井には極楽浄土が描かれていることは有名です。
お賽銭を入れて、家族や孫たちの健康と繁栄をお祈りしました。
今回は「建礼門院」ゆかりの「寂光院」には行けませんでした。
私は「三千院」と「寂光院」が、数km離れた別の寺院とは知りませんでした。
ガイドさんが「寂光院に行かれた方はおられますか?」と聞かれましたが、誰もいませんでした。
ガイドさんは平家物語の内容などを説明してくださり、大原の里は昔から貴人や念仏者が都の喧騒を離れて隠棲する場であったと教えてくださいました。
癒しのパワーの歴史に驚く
「平家にあらずんば人にあらず」と権勢を極めた平清盛の娘「建礼門院 徳子」は、1185年に大原の「寂光院」に入寺し、源平の戦に敗れ、遠く壇ノ浦で滅亡した平家一門と、我が子「安徳天皇」の菩提を弔い、終生をこの地で過ごしました。
平家物語の最後の場面である、後白河法皇の「大原御幸」を読むと、天国から地獄を味わった建礼門院の心境に思いをはせ、万感に袖をしぼる悲しさを覚えました。
太政大臣の娘として生まれ、国母となり、栄耀栄華は天上界にも等しく、60人ほどの美しい女官のお側仕えがいましたが、荒れ果てた寂光院時代は3,4人しかいなかったほどの落ちぶれだったそうです。
寂光院に入るにあたって女院は、「山里は、もの寂しいに違いはないが、都に近くいて憂きことを聞くよりは、まだしも住みよくありましょう」とお思い立ちあそばされ、29歳で寂光院にお入いりになったそうです。
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。(平家物語から)
大原の里は、時代を超えて大きな癒しのパワーを放っておられると感じました。
私たちは後ろ髪を引かれるようにバスに乗り込み、大原を後にして昼食会場の黄桜に向かいました。
まとめ
永六輔さん作詞の「女ひとり」の歌の3番に、「京都〜嵐山(らんざん)〜大覚寺(だいかくじ)〜♪ 恋に疲れた女がひとり♪〜」があります。
「清盛」に寵愛を受けた「祗王(21歳)」は、「仏御前(17歳)」が現れ捨てられます。
「祗王」は、母と妹と共に屋敷を追い出され身投げを考えますが、思いとどまり嵯峨の奥の山里に出家します。
その後「仏御前」も祇王のもとを訪れ、自分の行く末と重ね合わせて尼僧になります。
高倉天皇の寵愛を受けた琴の名手「小督(23歳)」は子どもを宿しますが、清盛の娘の皇后・徳子が子ができないなどの理由で迫害を受け、「小督」も嵯峨に身を隠しました。
この若き女性たちは、最高権力者の妻という、絶頂から転落して嵯峨の山里に逃避するのです。
嵐山も大覚寺も竹林多き嵯峨野に存在し、現在は観光などで賑わっていますが、昔は静寂な山村だったのです。
京都は都であり最高権力者の地でありましたが、歴史上その周辺の深山幽谷は、権力周辺から失脚した人々の救いと癒しの地になったのでしょう。
この度は、京都の「大原三千院」を訪れて、古刹、静寂、苔むす庭、山里の長閑な風景、緑織りなす自然、木漏れ日の小道、せせらぎ、清らかな空気と土の匂い、比叡おろしに象徴する山風にリアルに触れました。
「大原の里」は都会の喧騒、恋愛、人間関係、経済優先の競争社会などで傷つく私たちを、癒してくださる旅情に溢れていることをヒシヒシと感じました。
そのようなスポットを探し出しながら、これからも旅を続けたいと思いました。
バスの運転手さん、ガイドさん、旅行社のスタッフさん、京都、三千院のお世話になりましたすべての皆様方に、深い敬意と感謝を捧げます。
ありがとうございました。
See you(^^♪
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