下関の日清講和記念館の見どころ【体験】伊藤博文と李鴻章の息づかい

ユルバの旅行

みなさま、こんにちは(^^♪

旅の途中「下関春帆楼」に、ふぐ料理のランチを食べに行きました。

春帆楼の右横に「日清講和記念館」がありました。

重々しい歴史的雰囲気を感じましたので観覧することにしました。

入場は無料でした。

最低限のことを知りたいので、調べてみたことを記します。

❶「日清講和条約」(下関条約)を簡単に知りたい?
❷講和会議はなぜ下関で行われたのですか?
❸「日清講和会議記念館」はどうしてできましたか?
❹記念館には何が展示してありますか?

▲会議場が再現されています

❶「日清講和条約」(下関条約)を簡単に知りたい?

日清戦争(1894〜1895)は、朝鮮半島の権益で対立した日本と清国が、明治27年「甲午農民戦争」(東学党の乱)を契機に開戦しました。

戦況は、日本軍の圧倒的優勢、清国は日本との講和に動きます。

明治28年3月20日から下関の料亭「春帆楼」で日清講和会議が始まります。

日本全権の伊藤博文、陸奥宗光、清国全権の李鴻章、李経方をはじめ両国の代表11名が出席しました。

李鴻章狙撃というハプニングの中、会議は繰り返され、4月17日に講和条約が調印されました。

内容は、朝鮮独立、日本に台湾・遼東半島・澎湖列島を割譲、最恵国待遇、清の2億テールの賠償金支払い、一部開港などの11ヶ条です。

しかし、三国干渉があり、遼東半島は清に返還しました。

日本は、日清戦争の勝利によって明治維新以来追求した独立を果たし、国際的立場を飛躍的に高め、その後の進路を決定づけた画期的な講和条約となりました。

▲春帆楼の歴史が記されています

❷講和条約はなぜ下関で行われたのですか?

候補には長崎、広島などがありましたが、下関は日本の軍事力を清国に誇示できる最適な場所でした。

日本の多くの軍艦が、次から次へと大陸に向かい狭い海峡を通過する迫力ある光景は、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開しました。

長州出身の全権・伊藤にとって、春帆楼は我が家で海峡は我が庭のようなものなので、このような演出ができたのだろうと思われます。

▲李鴻章道から下関海峡を臨む

❸「日清講和会議記念館」はどうしてできましたか?

記念館は、昭和12年6月に講和会議の舞台となった「春帆楼」の隣接地に開館しました。

明治28年春、この地で開かれた日清講和会議と、下関条約の歴史的意義を後世に伝えるためです。

昭和20年の空襲で春帆楼は焼けますが、記念館は鉄筋コンクリート造りのため残りました。

本瓦葺の入母屋造りの記念館は、組物や懸魚など細部に伝統的な意匠を用い、外観は威風堂々たる建造物です。

この特徴が「造形の規範となっているもの」と評価され、平成23年に国の「登録有形文化財」に登録されました。

また「下関市立歴史博物館」の別館になっています。

▲手前右端が李鴻章の席です

❹記念館には何が展示してありますか?

館内には講和会議の模様が再現され、浜離宮から下賜された椅子をはじめ、調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などが展示されています。

また、館内中央には講和会議の部屋を再現し、当時の様子を紹介しています。

会談時に使用された、草花文蒔絵硯箱、フランス製のストーブ、浜離宮から下賜された椅子、インク壺とインクペンなどの展示があります。

▲伊藤博文と陸奥宗光の胸像

日清講和記念館に着く(体験談)

新下関駅からタクシーで、15分ほどで記念館に着きました。

春帆楼の正面玄関の右隣にあります。

玄関横には「伊藤博文と陸奥宗光の胸像」がありました。

現在、辻原登さん著作の「陥穽 陸奥宗光の青春」が日経新聞で連載されています。

とても興味深く読ませていただいています。

明治維新の歴史は教科書で習い、断片的なものは映画やテレビ、小説で読んで知っています。

主人公が薩長土肥でも徳川幕府でもない、紀州藩の秀才である陸奥宗光の青春時代の頃の視点で明治維新を描いています。

その時系列に沿った立体的な展開に新鮮な驚きがあります。

その陸奥外務大臣の胸像を見て、身近な親近感と感動を覚えました。

▲日本語の案内パネル

記念館の中に入りますと、案内文のパネルが掲げられています。

記念館の案内が日本語、中国語、韓国語、英語で書かれていました。

「講和会議場」(再現)の見学

通路の真ん中に、会議の部屋が当時のままを再現してあります。

それを囲むように外側の壁面三方に、書画、写真、屏風絵などが陳列してありました。

館内に案内人は誰も居られません。

観覧される方は他に一人も居られません。

私たち夫婦だけです。

暖房もありませんが、ゆっくり当時を偲びつつ観ることができました。

李鴻章の墨蹟を見ましたが、おおらかな深みのある筆跡に人物の偉大さを感じました。

清国で出世するくらいですので優秀な方でしょうが、人文肌なので生き馬の目を抜くような交渉事は大変だったと感じました。

▲講和会議場がリアルに観覧できます

第1回会談で、伊藤博文と李鴻章は旧知の間柄であり、李は日本の近代化を高く評価し、「今次の日清戦で清国が長い間の迷夢を日本によって破られたことに感謝する」と述べ、「今後は西洋列強の圧力に対し、日清両国は兄弟のごとく連携しなければならない」と述べて、和やかに交渉が始まったそうです。

陸奥外相は、そのような李鴻章を「古稀以上の老齢に似ず容貌魁偉言語壮快で、人を圧服するに足りる」人物と記し、「さすがに清国当世の一人物に恥じず」と李の老獪さを評価したそうです。

▲「李鴻章道」手前が宿舎の引接寺です

「李鴻章道」を歩いてみる

第3回会談3/24の帰り、李鴻章は小山豊太郎という青年に狙撃され重傷を負います。

明治天皇や皇后、下関の人々から多くのお見舞いと同情が寄せられました。

陸軍軍医総監による治療もあり回復し、4/10の会議に復帰しました。

李鴻章は、「重要な会議のため銃弾を摘出する手術は会談終了後にする」と言いました。

李鴻章は大通りを避けて、山沿いの道を寄宿舎から会場に通いました。

その道は「李鴻章道」と言われ、今日でも顕彰されています。

▲当時の写真が拡大して飾ってある

第6回目の会合で李鴻章は、翌日の調印を前にして帰ろうとする時に「伊藤がこれほどまでに厳酷にして執拗な人間だとは思いもよらなかった」と愚痴をこぼしたそうです。

第7回会談の4/17午前、日本側伊藤博文・陸奥宗光、清国側李鴻章・李経方が春帆楼に会合し、日清講和条約(下関条約)が調印されました。

当時の生々しい写真や会議場の再現を見て、先人のご苦労が無ければ日本やアジアは列強の植民地になり、紆余曲折を経ても今日の繁栄は無かったと敬意と感謝の思いを捧げました。

▲当時の春帆楼周辺を描いていると思われます

外壁の奥の正面に日本画が飾ってあります。

「春帆楼」の名前を伊藤博文が命名しました。

よく見ると、桜は春を表し、帆船が沢山行き来し、長閑で平和な馬関が偲ばれます。

伊藤博文は、黒船襲来から尊王攘夷を掲げ、フランス艦隊と馬関で戦い、盟友高杉晋作は海峡を乗り越え、小倉の政府軍を蹴散らした戦争などは、この絵のような平和と繁栄を願ってのためであり「春帆楼」を命名したのでしょうか。

故郷、日本、アジア、世界の平和と繁栄のために時局の顕彰を後世に残してくださった方々に感謝して、「日清講和記念館」を後にしました。

「日清講和記念館」のご案内

名称:日清講和記念館

所在地:〒750-0003 下関市阿弥陀寺町4番3号

開館時間:午前9時~午後5時 (年中無休)

入館料:無料

お問い合わせ先:下関市立歴史博物館

電話番号:083-241-1080

アクセス:公共交通機関=JR下関駅(長府方面行きのバス・所要時間約10分)→バス停「赤間神宮前」下車(徒歩1分)→日清講和記念館(春帆楼隣)、タクシー=JR下関駅(所要時間5分)→日清講和記念館

▲旧下関英国領事館(国指定重要文化財)

まとめ

「日清講和記念館」の観覧にあたって最低限のことを知りたいので、調べてみたことを記します。

❶「日清講和条約」(下関条約)を簡単に知りたい?

日清戦争が始まり、日本軍の圧倒的優勢により、下関で日清講和条約が調印されました。

この戦争勝利と講和条約により、日本は明治維新以来追求した独立を果たし、国際的立場を飛躍的に高めました。

❷講和条約はなぜ下関で行われたのですか?

下関は日本の軍事力を清国に誇示できる最適な場所で、清国使節団に脅威を与え、その後の交渉は日本のペースで展開しました。

❸「日清講和会議記念館」はどうしてできましたか?

記念館は、昭和12年6月に講和会議の舞台となった「春帆楼」の隣接地に開館しました。

明治28年春、この地で開かれた日清講和会議と、下関条約の歴史的意義を後世に伝えるためです。

❹記念館には何が展示してありますか?

館内には講和会議場が再現され、調度品、両国全権の伊藤博文や李鴻章の遺墨などがあります。

草花文蒔絵硯箱、フランス製のストーブ、浜離宮から下賜された椅子、インク壺とインクペンなどの展示があります。

▲「戦艦 三笠」日本海海戦で連合艦隊旗艦を務めました

私は若い頃に、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」を読みました。

明治の若者達の、国づくりに賭ける覚悟と行動と息づかいに感動しました。

しかし、日清・日露戦争の勝利の驕りが、大東亜戦争の悲劇を生んだという論調もあります。

戦後、日本は臥薪嘗胆の中を、世界の奇蹟と言われる経済成長を遂げました。

そして、その驕りが30年の経済停滞を招いたとも言われています。

個人も国家も世界も、「驕れるもの久しからず」「人間万事塞翁が馬」の様相を呈しているのでしょうか。

他者から学ぶ大切さを教えた「賢者は歴史に学び愚者は経験に学ぶ」というビスマルクの言葉もあります。

日本国は、近代化の世界の大動乱の中で、大陸、半島、列島という地政学的位置の中で植民地化せずに生き残るために、天皇・官民一体となり戦い、国内、アジア、西洋列強との交渉がなされました。

記念館では、それを託された、個人は想像を絶する覚悟で、多くの国民の代表として闘った息づかいを感じることができました。

明治の当事者達は下関海峡から、瀬戸内海、日本海、東シナ海、西洋列強(アメリカ・ロシア・イギリス・フランス・ドイツ)などを見て、日本の行く末に命をかけて進まれたのだと実感しました。

伊藤博文、陸奥宗光、李鴻章をはじめ先人達のご苦労と共に、歴史を顕彰し後世に伝えてくださいます方々に敬意と感謝を捧げ、「世界平和」を祈念いたします。

ありがとうございました。

この下関旅行の「総集編」として、『下関観光おすすめ【シニア夫婦体験】ふぐ料理・瓦そば1泊2日総集編』を書きました。

内容は、「スケジュール」「持ち物一覧」「旅行費用総額55,674円の明細」「観光地・食処の8体験談」を記しましたので、興味のあられる方はご覧ください。

シニア夫婦のアクシデントや失敗がありましたが満足な旅ができました。

ありがとうございました。

See you(^^♪

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みなさま、こんにちは、はじめまして♪
わたしは、地方都市に住んでいる60代後半の主婦で、ユルバと申します。
子どもたちは独立し、夫と二人暮らしです。
自宅を「終のすみか」にリフォームし、それなりに満足のいくリフォームができました。
ネット検索をしたら業者さんの記事がほとんどで、施主さんの生のリアルな声が少なかったです。
その教訓から、シニアの主婦目線のリフォームの体験談をblogしたいと思い立ちました。
また好きな旅行なども同じ気持ちで書きました。
失敗やハプニングの連続でしたが、みなさまのご参考になれば幸いです。
よろしくお願いいたします(^^♪

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