みなさま、こんにちは(^^♪
下関を旅しました。
関門海峡を眺めながら、「日清講和記念館」を見学して、「春帆楼」でふぐのランチをいただきました。
隣にある観光客が最も多いと言われる「赤間神宮」にお参りすることにしました。
初めてなので、知らないことばかりです。
古い歴史があるので、見た目の美しさだけではなく歴史や由来、見どころなども知って観光を楽しみたいです。
❶赤間神宮(阿弥陀寺)の歴史を教えてください?
貞観元年(859年)に、浄土宗の「阿弥陀寺」として開かれました。
文治元年(1185年)源平合戦の壇ノ浦の戦いで入水した安徳天皇を、御影堂を建立して祀りました。
明治の神仏分離令により阿弥陀寺は廃され、安徳天皇を祭神とする神社となって「天皇社」、後に「赤間神宮」となりました。
❷赤間神宮の由来を簡単に知りたいです?
下関市にある赤間神宮は、旧社格は官幣大社で安徳天皇をお祀りしている神社です。
安徳天皇は、平家の当主・平清盛の娘と高倉天皇との間にできた子供で、8歳の若さで壇ノ浦の流れに消えた悲劇の天皇です。
幼帝のご遺体は発見できず、阿弥陀寺に建久2年(1191年)に勅命により御影堂が建立され、建礼門院(母)ゆかりの尼が仕えました。
江戸時代までは仏式で祀られ、廃仏毀釈により神社となり現在に至ります。
❸赤間神宮のパワースポットは何ですか?
赤間神社は海峡に面しており、海のパワーの神社として知られています。
海や川や水に関わるご利益が多く、水難守護や水商売繁盛のほか、水と海の恵みや漁業のご利益もあると言われています。
また幼帝・安徳天皇にまつわるご利益として、子宝、安産、七五三、子育て、受験、子供の成長大願などにもご利益があると言われています。
❹赤間神宮の見どころを教えてください?
水天門と神殿
赤間神宮の入り口の赤と白の美しい建物は、竜宮城をイメージして造られた「水天門」です。
幼帝と一緒に入水した二位尼(母方祖母、平時子、徳子の母、清盛の継室)が、
「今ぞしる みもすそ川の おんながれ 波の下にも 都ありとは」
との歌を詠みました。
「海の底にも都があります」という意味で、幼帝が怖がらないように言ったのでしょう。
関門海峡の前に建つ華やかで美しい水天門には、安徳天皇を偲び、煌びやかな都がイメージできるよう竜宮造りの門が作られました。
安徳天皇陵と平家一門のお墓
赤間神宮には安徳天皇のお墓である安徳天皇陵や平家一門のお墓があります。
安徳天皇のお墓は「安徳天皇阿弥陀寺陵」と呼ばれ、赤間神宮に隣接しています。
平家一門の武将を祀るお墓は「七盛塚」と呼ばれています。
平有盛、平清経、平知盛などの武将、安徳天皇と入水した祖母の平時子などのお墓です。
耳なし芳一堂
壇ノ浦の戦いから百年くらい経った頃、阿弥陀寺に住む盲目で琵琶の名手・芳一が、平家の亡霊に「壇ノ浦の合戦」の演奏を頼まれ、平家の墓地に通い続けます。
芳一の衰弱に気付いた僧侶達は、芳一の体中に般若心経を書き、連れて行かれないようにしました。
ところが、耳にだけお経を書き忘れ、芳一を迎えに来た亡霊が両耳を切り取り持ち帰ってしまいました。
その後、芳一は元気になり好きな琵琶を弾きながら余生を過ごしました。
この「耳なし芳一」の舞台となったのが赤間神宮です。
境内には「芳一堂」というお堂があり、耳なし芳一を祀っています。
宝物殿
宝物殿には、3つの重要文化財と5つの重要美術品を始め、多数の宝物が展示されています。
他では見れない貴重な、壇ノ浦の合戦の絵や安徳天皇御入水の絵など、迫力ある屏風絵を見れます。
しものせき海峡まつり「先帝祭」
毎年5月2日~4日に、悲劇の幼帝・安徳天皇を偲ぶ「先帝祭」が開催されます。
平家の落人達は漁業をしたり、女官も生計を立てながら先帝の命日に菩提で礼拝を続けたのが上臈参拝の始まりと言われているようです。
「関の先帝、小倉の祇園、雨が降らねば金が降る」といわれ、豪華絢爛たる道中を数十万人の見る人でごった返しました。
耳なし芳一まつり
毎年7月15日には赤間神宮で開催されるそうです。
この「耳なし芳一堂」や平家一門の墓「七盛塚」の前で、神事や琵琶演奏などが行われます。
赤間神宮に到着する(体験談)
春帆楼から歩いて3分ほどで隣地の「赤間神宮」に着きました。
観光バスなどで沢山のインバウンドや観光客が、参拝から帰って行かれました。
私たちが入る頃は、まばらな参拝者でした。
海峡から数十メートルを前にして、鳥居が立っていました。
鳥居を潜って少し歩くと、上の方に「水天門」が見えました。
緑の屋根に金の鯱鉾、朱の木材に白い門があり、「水天門」という扁額が掛かっていました。
境内は、掃き清められて凛とした霊域となっていました。
「安徳天皇陵」にご参拝する
左の階段を登りました。
その左側に「安徳天皇陵」と書いてありましたので、数10メートルほどですので、そちらにご挨拶に行きました。
掃き清められ、天皇陵に相応しい質素で重々しい威厳の中に、菊のご紋章が存在感を放っていました。
脱帽し、礼拝をして安徳天皇に思いを馳せました。
安徳天皇陵は、「西日本では唯一の御陵」と言われています。
以前、四国八十八ヶ所巡りの途中で崇徳天皇の「白峯陵」に参拝したことがあります。
明治天皇が、明治改元の時に御霊をお迎えに行かせ、京都の「白峯神宮」に遷されました。
因みに124の天皇陵は「奈良、大阪、京都」の地が大半で、東京に大正、昭和天皇の2陵、山口の安德天皇陵のみとなります。
讃岐に流島された崇徳上皇は、源平時代の直前であり、安徳天皇は源平合戦の最後であり、王家といえども歴史と時代の波に翻弄される人生に、人の哀れを感じました。
陵でのお参りから水天門の途中に石碑がありました。
赤間神宮復興之碑には、空襲で消失した神宮の復興をした方々の記録が刻されています。
時の議員や大洋漁業の社長や市民が一体となり取り組まれ、天皇や皇室も訪問されたようです。
題字は、伊勢神宮祭主で神社本庁総裁であった明治天皇の子・北白川房子氏が揮毫されたそうです。
「水天門」をくぐります
石碑を読んで敬意を表しながら、水天門の前にきました。
全国各地を巡りますと、国家的支援があるところは綺麗ですが、地方でこのように整備されているところは珍しいと思いました。
いよいよ水天門をくぐります。
「平家物語」の先帝の身投では、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた二位尼に抱き上げられた安徳天皇は、
「尼ぜ、わたしをどこへ連れて行こうとするのか」
と問いかけます。
二位尼は涙をおさえて、
「君は前世の修行によって天子としてお生まれになりましたが、悪縁に引かれ、御運はもはや尽きてしまわれました。この世は辛く厭わしいところですから、極楽浄土という結構なところにお連れ申すのです」
と言い聞かせました。
天皇は小さな手を合わせ、二位尼は「波の下にも都がございます」と慰め、安徳天皇を抱いたまま壇ノ浦の急流に身を投じました。
「水天門」は波の下の極楽浄土を、竜宮城として造られたと言われています。
神宮本殿にお参りする
安德天皇は2年ほど屋島の仮の御所に居ましたが、屋島合戦、壇ノ浦の戦いに敗れて平家は滅亡します。
三種の神器のうち神璽と神鏡は源氏軍が確保しましたが、宝剣は失いました。
その後、伊勢神宮から献上されたものを正式に宝剣としています。
母の建礼門院(平徳子・清盛の娘)も入水しますが、源氏方将兵に熊手に髪をかけられ引き上げられました。
その後は、京都に護送され出家し大原の寂光院で安德天皇と平家一門の菩提を弔ったそうです。
階段を登り、脱帽し、お賽銭を入れて、2拍手と拝礼をしました。
ここでは主祭神として祀られていますので、華やかで願いを叶える神様として居られるのでしょうか、天皇陵とは違った雰囲気で、日本独特の祭りなのでしょうか?と思いました。
拝殿を出ようとしたら雨が降ってきました。
インバウンドの皆様も、急いで下屋に入りました。
水の神様であり、物悲しい歴史に落涙も感じました。
「七盛塚」に拝礼し「耳なし芳一」を拝する
向かって左側の路地を入りますと、平家一門のお墓がありました。
古い当時のままでしょうか、朽ちて墓跡の文字もよく分かりません。
陰気で気味悪い感じもあり、写真も撮れませんでした。
案内に、平家一門の墓(七盛塚)とあり、壇ノ浦の戦いで敗れた平家一門の合祀墓で、14名の名前が書いてありました。
お墓の入り口の右側に、小泉八雲の「怪談」にも書かれた有名な「耳なし芳一」の堂と像がありました。
インバウンドの若者が10人くらい熱心に耳を傾けて、耳のない芳一像を眺めていました。
小泉八雲のように日本の怪談に驚いたのでしょうか。
赤間神宮のご案内
住所:〒750-0003山口県下関市阿弥陀寺町4-1
お問い合わせ・電話番号:083-231-4138
営業時間:[宝物殿]9:00~16:30(宝物殿入場料100円)
休業日:無休
アクセス:JR下関駅からバスで9分「赤間神宮前」下車すぐ/JR新下関駅からバスで約20分「赤間神宮前」下車すぐ/中国自動車道下関市ICから車で15分
駐車場:普通車50台
まとめ
「赤間神宮」は古い歴史があるので、見た目の美しさだけではなく歴史や由来、見どころなども知って観光を楽しみたいと思いました。
859年に、浄土宗の「阿弥陀寺」として開かれました。
1185年に、源平合戦で入水した安徳天皇を祀りました。
明治の廃仏毀釈で、阿弥陀寺は廃され「赤間神宮」となりました。
安徳天皇は8歳の若さで、壇ノ浦で入水した悲劇の天皇です。
阿弥陀寺に勅命で御影堂が建立され建礼門院ゆかりの尼が仕えました。
江戸時代までは仏式で、明治より神社となり現在に至ります。
水難守護、水商売繁盛や、水と海の恵みや漁業のご利益もあるそうです。
子宝、安産、七五三、子育て、受験、子供の成長大願のパワースポットでもあります。
赤間神宮には、「水天門と神殿」「安徳天皇陵と平家一門のお墓」「耳なし芳一堂」「宝物殿」「しものせき海峡まつり・先帝祭」「耳なし芳一まつり」など、歴史満載の見どころがあります。
鎌倉幕府成立と明治維新という、日本の二つの大きなターニングポイントに、下関は関係しました。
歴史の生々しい盛衰の現場の中で、ご当地は悲喜交々な感情を民衆は受け入れて、消化して行かれたことと感じました。
顕彰と祭りと敗者への慰霊と労り、神社仏閣に建造物や石碑や宝物殿に、歴史や人物の精神を残し、後世の私たちに伝えてくださいました。
温故知新、先人のご苦労のもとに私たちの平和と幸福があります。
先人から学び、私たちも未来の人たちに、この歴史の学びを伝えていきたいと思いました。
ありがとうございました。
この下関旅行の「総集編」として、『下関観光おすすめ【シニア夫婦体験】ふぐ料理・瓦そば1泊2日総集編』を書きました。
内容は、「スケジュール」「持ち物一覧」「旅行費用総額55,674円の明細」「観光地・食処の8体験談」を記しましたので、興味のあられる方はご覧ください。
シニア夫婦のアクシデントや失敗がありましたが満足な旅ができました。
ありがとうございました。
See you(^^♪
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