みなさま、こんにちは♪
佐賀県の観光に「吉野ヶ里遺跡」を選びました。
20年くらい前に来ましたが、何があったかすっかり忘れてしまいました。
夫が初めてなので、是非行って見たいと言いました。
最低限の予備知識を得てから、見学したいと思いました。
私が知りたいことは、次の6点です。
昨日は「九州国立博物館」で弥生時代の甕棺などを見学しましたので、今回は遺跡現場に身を置いて体感しますので楽しみです。
事前に「調べて」知っていることは、何倍も感動が多いと思いました。
もちろん、何も知らずに先入観なしで見て驚くことも素晴らしいと思います。
吉野ヶ里遺跡の全体像を知りたいなぁ?
「吉野ヶ里遺跡(よしのがりいせき)」は、佐賀県神埼市と吉野ヶ里町にまたぐ、全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の弥生時代の「環壕集落跡」です。
吉野ヶ里遺跡は、弥生時代(紀元前5世紀から紀元3世紀まで約700年間続いた)の、全時期の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓(かめかんぼ)、弥生時代中期の王の墓と考えられる墳丘墓(ふんきゅうぼ)などが発掘されています。
平成元年に一般公開された時は、中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に記された邪馬台国(やまたいこく)の姿を彷彿させ、大きな話題となりました。
大陸から朝鮮半島経由で伝わった米作り文化や、青銅器・鉄器文化を取り入れたムラが、クニの中核集落へと発展していく姿をたどることができる貴重な遺跡として、国の「特別史跡」に指定されました。
平成13年4月にオープンした「吉野ヶ里歴史公園」は、遺跡の保存と活用を目的に整備され、計画面積117haの広大な敷地には、物見櫓や竪穴住居など98棟の建物や集落を囲む環壕・城柵が復元され、最も栄えた3世紀ごろの様子が再現され、弥生時代の雰囲気を十二分に体験できる空間となっています。
吉野ヶ里遺跡は邪馬台国だったのかなぁ?
報道がなされた当初、吉野ヶ里は、「邪馬台国のように広範囲を統べる大国ではないか?」と大いに騒がれました。
また、一部では「九州王朝説」なども繰り広げられました。
現在は、九州北部にあった複数の有力な「クニ」の一つに過ぎないのではないかという見方もされています。
「吉野ヶ里歴史公園の弥生Q&A」では、
吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません。
ただ、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子とそっくりな建物跡などが見つかっており、復元された建物等を通して、邪馬台国の様子を感じることはできる、という意味では、邪馬台国のイメージに近い遺跡だということは言えるでしょう。
物見やぐら跡や高床倉庫と考えられる建物跡、幾重にも巡らされた大小の環壕跡など、魏志倭人伝に記された邪馬台国の様子を彷彿とさせる遺跡が見つかっていますが、邪馬台国であるかは不明です。
と記されています。
しかし、弥生時代の全時期にわたって網羅する日本最大の環壕遺跡が存在し、それを当地で一度に見学できるということは、古代(弥生時代)を生きた、魏志倭人伝に記される邪馬台国や卑弥呼を識るためには大変有益な遺跡であると感じました。
どこが凄いの、吉野ヶ里の歴史が知りたい?
吉野ヶ里遺跡に住んだ人々は、弥生時代の全時期にわたります。
弥生時代は「日本で食糧生産が始まってから前方後円墳が出現する時代」とされ、年代は紀元前10〜5世紀から紀元後3世紀中頃にあたります。
縄文時代
北部には1000m級の背振山が寒断と防衛の役目を果たし、南には暖かな丘陵と平野と海に恵まれました。
有明海の干満の差や、筑後川などの河川を利用した水運に優れたこと、また魚や貝やカニといった食料が豊富に得られたことなどの好条件が揃い、この地域に人の定住が始まったと考えられています。
弥生時代前期
紀元前5〜前2世紀:環壕2ha
吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生します。
やがて南側の一画には環壕をもった集落が出現し、「ムラ」から「クニ」への中心集落へと発展する兆しが見えます。
弥生時代中期
紀元前2〜紀元1世紀:環壕20ha
丘陵の南側を一周する大きな外環壕が掘られます。
首長を葬る「墳丘墓」や、たくさんの「甕棺墓列」も見られます。
集落の発展とともに、その防御も厳重になってきていることから「争い」が激しくなってきたことがうかがえます。
弥生時代後期
紀元1〜3世紀:環壕40ha
国内最大級の環濠集落へと発展し、大規模なV字型の外環壕によって囲まれ、さらに特別な空間である2つの内郭(北内郭・南内郭)をもつようになります。
これらの内郭には、祭殿や物見櫓などの大型の建物が登場し、吉野ヶ里の最盛期にあたります。
この時期の人口を予測しますと、甕棺の数などからしておよそ壕内に1,200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では5,400人くらいの人々が住んでいたと推測されます。
古墳時代
3世紀の終わりから4世紀の始め頃、吉野ヶ里の集落は突然途絶えてしまいます。
それは、戦乱の世が治まり、もう濠や土塁などの防御施設や高地性集落の必要性がなくなったからであると考えられます。
人々は、低湿地を水田に開拓出来るようになり、生活の基盤を平野に置くようになりました。
古墳時代は、個人が大きな権力と富を持つ時代になりますが、こうした社会の流れの中で、吉野ヶ里の人々も住む場所を変えていったと想定されます。
遺跡内にある3基の前方後方墳は、弥生時代の集落が消滅した跡に造られたと考えられています。
吉野ヶ里遺跡の見どころは?
吉野ヶ里歴史公園の見どころを7点紹介します。
オリジナルの土器風の食器で出される、有明海産あさりをレストランで食べて古代食を味わってみましょう。
敵の見張りに使われた4棟の物見櫓と、11棟の竪穴住居や集会所などを見てください。
巨大な主祭殿や物見櫓が発掘された場所で、祭祀儀礼や政治を行う場所は見応えがあります。
主祭殿の高層部は最も神聖な場所であり、中層部は支配者層の集会を再現しています。
二重の壕や高い柵があり、重厚な雰囲気を醸し出しています。
吉野ヶ里遺跡からは、600mに渡る世界的にもめずらしい甕棺墓の列が発見されました。
甕棺墓とは、甕や壺などを棺として使ったもので、弥生時代の北部九州独自の埋葬方法であり、出土した様子を復元しています。
歴代の王が埋葬されていたと思われる小高い丘があります。
内部には発掘状況をそのまま展示した半地下方式の施設があり、14基の甕棺の実物を間近に見ることができます。
甕棺の出土状況や、埋葬当時の様子をわかりやすく紹介しています。
吉野ヶ里の国の交易の中心地で、盛大な市が開かれていた場所です。
取り引きされた品々を保管する高床倉庫などを再現しています。
湿気やネズミから貯蔵品を守る高床式の倉庫が並んで壮観です。
一般の人々が暮らしていた場所で、27棟の竪穴式住居などが再現され、大変のどかな雰囲気です。
ここにある「弥生くらし館」では、体験メニューの「勾玉づくり体験」や「火おこし体験」、平日には「土器の復元作業」を、土・日・祝日は「鋳込み体験」を実施しています。
多くの見どころがありますので、「狙い」を絞って体感されることをお勧めします。
2〜3時間で見る効率的な見学方法は?
私たち夫婦の「狙い」は、「吉野ヶ里遺跡を直接見て体感したい」ということです。
しかし、シニアで体力がない、旅行の途中で時間の制約があり、2〜3時間で見学したいと思いました。
そのことを受付で申し上げたら、職員さんが親切かつ適切にアドバイスをして下さいました。
結論的には、①歴史公園センター(東口)を徒歩で出発→②「南内郭」の見学→③「北内郭」の見学→④「北墳丘墓」の見学→⑤バスに乗り「中のムラ」「倉と市」「南のムラ」を周遊する→⑥歴史公園センターに帰るコースにしました。
遺跡の迫力を肌で感じ感動しました。
2時間半前後で見ることができました。
体力も心配いりませんでした。
自分たちの「狙い」に合わせて、見学や体験を計画したら良いと思います。
園内は、広大な敷地を4つのゾーンに区分けされています。
全てのサービスや情報があり、レストランや売店もあります。
多数の遺構が復元され当時の様子を見ることができ、主祭殿や物見櫓の見学、弥生人の生活や文化なども体感できます。
また土器や装飾品などを陳列した展示室、発掘や土器復元を見学できる施設、体験工房があります。
芝生の中に物見櫓風の大型遊具などがあり、体を動かして楽しめます。
レクリエーションを行うゾーンで、広場・水辺や遊具、野外炊事コーナー、赤米などの古代米を栽培する水田などがあり、子ども連れの家族に喜ばれています。
森が再現され、官衙跡の復元、古代植物の栽培、キャンプ場などが計画されています。
公園では、「弥生人の声が聞こえる」をテーマに整備・情報発信が行われています。
年に10数回イベントが企画され、古代の文化や生活の体験ができ、多くの店も並びます。
勾玉などの装飾品の試作、当時の衣服の試作・試着、古代米の育成、食事体験、火おこし体験などの古代体験プログラムや、ベニバナやそばの花など在来植物による花修景など、弥生時代をどっぷりと体感できるそうです。
古代食は美味しいですか?
当時の人々は、どんなものを食べていたのでしょうか?
弥生時代に、大陸や朝鮮半島から米作りが伝播しました。
また、米の他にも、さまざまな海の幸、山の幸を食べていました。
穀物では小麦、アワ、キビ、豆、瓜、ドングリ、クルミなどです。
動物ではイノシシ、鶏、シカ、クマ、タヌキ、イヌなども食べました。
魚介類はフナ、コイ、サメ、スズキ、アジ、オオタニシ、カワニナ、ヤマトシジミなどです。
有明海の蟹やシャコや鰻などは、絶品であったと思われます。
これらのものを、煮たり焼いたり味付けして食べていたのでしょう。
豊富な食材、新鮮な野菜、飲酒を見る限り、美味しい食事に恵まれていたと思われます。
当時は箸を使わず、手づかみで食べていたようです。
魏志倭人伝による倭人の食生活は、「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」「飲食は高杯を使い、手づかみで食べる」「人々は生来酒が好き」と記されています。
遺跡から出土する炭化穀物から、弥生時代は米の他に、小麦、アワ、ヒエ、小豆などの雑穀が栽培されていました。
多品種の海の幸、山の幸があり、現代と同じようにご馳走に恵まれ、美味しい食生活に酒好きのグルメに人気があったと思われます。
佐賀地方には、家で鯉を飼い客人が来ると、美味しい「鯉こく」を振る舞う風習があると聞いたことがあります。
私も、ここのレストランで「古代貝汁御膳」をいただきましたが絶品でした。
あとで写真付きで紹介します。
また、有明海の竹崎蟹(ワタリガニ)などの地元の食材を実際に食べてみましたので、とても美味しいです!!興味のある方はご覧ください。
「かに料理おすすめ【シニア夫婦体験談】ワタリガニ・竹崎蟹が美味しい」
吉野ヶ里公園駅に到着する(体験談)
博多駅(10:27発)から、新幹線と長崎本線の在来線に乗り継ぎ、吉野ヶ里公園駅(11:06)に着きました。
駅員さんにコインロッカーを尋ねましたら「無い」そうです。
近くの案内所に行きましたら、親切に「200円で終日預かります」と言われましたので、お願いしました。
やれやれ、安いですね、助かりました。
レンタルの自転車がたくさんありましたが、私は「乗れません」ので、夫にタクシーを頼みました。
吉野ヶ里歴史公演センター(東口)に着く
タクシーの運転手さんに「吉野ヶ里歴史公園には東口、西口、北口の3つの入口がありますが、どこに行くのが効率よく見学できるでしょうか?」と聞きました。
「遺跡を楽しみたい方は、公園のメインゲートである東口の歴史公園センターから入るのが一番いいですよ」と言われましたので、東口にお願いしました。
入口ゾーンの「東口」には、吉野ヶ里歴史公園の利用に関わる様々な情報を知ることができ、レストランや売店もあります。
時計を見たら11:30でしたので、今のうちにレストランで昼食をとることにしました。
事前に当時食べたであろう古代食の「古代貝汁御膳」を是非食べたいと思っていました。
期待する反面、不味くても勉強だ!とも思い覚悟をしていました。
弥生の人々の食事は、有明海から獲ったアゲマキ、ハイガイ、スミノエガキ等を土器で煮て食べたそうです。
遺跡から、これらの貝が出土しているそうです。
いただいた貝汁は有明海から獲れたアサリであり、当時の古代食をイメージした創作料理だそうです。
アサリが大小とたくさん入っており、とても美味しかったです。
有明海産の海苔に包まれた、古代米(赤米)おにぎりも絶品の美味しさでした。
美しいオリジナルの土器風のお椀は、手触りが暖かくて、唇が触れますがとても当時の雰囲気を感じ満足!でした。
手前にある「ムツゴロウの甘煮」は、私は苦手なので、夫に食べてもらいました。
夫は「ムツゴロウを食べないと来た意味がないよ!」と言いましたが、貝の方は私が全部いただきました。
古代食・完食バンザイ!!
高齢者二人が定食では量が多いので、夫はちゃんぽんを頼み、二人でシェアしていただきました。
ちゃんぽんも、流石に「発祥の地である長崎」の隣県だけあってとても美味しかったです。
シニア雇用でしょうか、厳格・清潔・優しそうなお爺ちゃんがホールを務められ、その姿に感じ入りました。
定食セットには、飲み物付きでした。
佐賀茶の羊羹と、器がさすがに「焼き物の佐賀県」の逸品でした。
白磁の光沢が美しく、薄くて軽く、買って帰りたいくらいでした。
飲み心地、満点でした!
「東口」の入場ゲートを入る
ゲート前には、入場券の自動販売機と案内の職員さんがおられました。
とても分かりやすいです、一枚に地図も入ったパンフを下さいました。
大人は460円ですが、65歳以上は200円と割安です。
大きな「天の浮き橋」を渡りますと、霧雨が降ってきました。
炎天下より涼しくてマシだと思いながら、傘をさしました。
環壕集落ゾーンの見学のおすすめは、南内郭→北内郭→北墳丘墓→古代の森→中のムラ→倉と市→南のムラの順番で回るコースが良いそうです。
北墳丘墓からはバスを使う方が楽に回れます。
防衛の拠点と王の住居「南内郭」
敵の見張りに使われた4棟の物見櫓と11棟の竪穴住居や集会所などがあります。
「魏志倭人伝」に記された楼観(ろうかん)跡と推定される物見やぐら跡です。
物見やぐらは外からの侵略者を監視する見張り台だったようです。
復元された物見やぐらは床高6.5m、高さは12mで、佐賀平野を遠くまで見渡せます。
ここからの見晴らしは弥生時代にタイムスリップしたような懐かしい感じがしました。
南内郭入口近くの展示室では、おもな出土品が見学できます。
さまざまな遺構・遺物や、銅剣や青銅器の鋳型、かめ棺や土器、石包丁や矢じりなどの実物やレプリカ、模型が展示されています。
甕棺の中にやじりの刺さったような遺骨もあり、戦いの激しさがリアルに感じられました。
吉野ヶ里遺跡では、甕棺の中から麻や絹の布片が見つかっています。
当時は、身分によって服の素材や形が違っていたようです。
上層の衣装は写真の右側です。
一般の衣装は写真の左側です。
履き物は、板を浅くえぐった木製の遺物が出土しており、沓を履いていたようです。
美しい絹を縫製する技術があったことに驚きました。
人々の住まいは、竪穴住居(たてあなじゅうきょ)でした。
吉野ヶ里遺跡で発掘された、弥生後期の住居跡は長方形です。
縄文時代は、円形の竪穴住居が一般的です。
ご当地の自然の中に立体的に展示され、感情移入がしやすかったです。
多数の遺構が復元されており、当時の様子を垣間見ることができ、弥生人の生活や文化なども体感できます。
復元された住居跡には、炉跡(ろあと)や、ここで寝ていたとも考えられるベッド状遺構などがあります。
人形が大変リアルで、最初に一人で家に入った時は、ゾッとして驚きました。
吉野ヶ里の最重要地区「北内郭」
南内郭が王たちの住居だったのに対し、北内郭は祭祀と政治のための区画です。
巨大な主祭殿は、祭祀や政治を行う場所です。
二重の壕や高い柵があり、入口が鍵形に折れた、より防御力の高い虎口となっています。
重厚な雰囲気で、ムラの中でもっとも神聖な場所とされた主祭殿です。
外から見ると素朴な無機質な建物に見えますが、ガイドさんが是非上に上がり、見てくださいと言われました。
ハシゴ段を登り、2階に上がりビックリしました。
息づくようなリアルな人形が数十人おられました。
王様を中心に、緊迫感ある政治的会合をしておられました。
古代中国の映画の場面のようでした、私もここの一員になったような気持ちになりました。
王たちがクニの重要な事柄を主祭殿で話し合い、まとまらない時は神託を基にして決定を下していました。
現代は「政教分離」と言いますが、「祭政一致」であったことが肌身で感じました。
少し非科学的だと感じますが、当時としてはこの在り方しか、なかったのではないかと思わせられました。
この主祭殿の北方延長上には、祖先の墓である北墳丘墓があります。
司祭者は主祭殿から北墳丘墓に向けて祈りをささげ、そこから神託を得ていたのだと思われます。
司祭者の責任は大変だと思いました。
人智では解明できないことを全て神がかり的御託宣で答えることは、当たらなかったり逆の結果が出たりしたらどうなるかと心配になりました。
吉野ヶ里の人々が祈りをささげていた北墳丘墓の手前一帯には、大型の素焼きの土器を棺として埋める甕棺が列を成して発見されました。
この甕棺は3,000基以上(その他の墓は350基以上)が見つかっています。
まだ未調査のところも多く、脊振山麓までの約4km間に15,000基から20,000基程度が存在していたものと考えられています。
タイムカプセルのような不思議な形をした甕棺の多さと、九州北部にしかないということに?を感じました。
当時は先祖や死んだ人々を、丁寧に埋葬されていたのだと思いました。
歴代の王たちが眠る「北墳丘墓」
約2100年前の王や、それに近い身分の人が埋葬された特別な墓です。
この小高い丘を、北墳丘墓といいます。
展示棟が草の生えている丘の中にあり、驚きました。
よく演出された、分かりやすい、ご当地的価値の高い場所で、迫力ある展示で肝を冷やしました。
内部には発掘状況をそのまま展示した半地下方式の施設があり、14基の甕棺の実物を間近に見ることができます。
10年ほど前に、長男である夫の墓の引っ越しをしました。
田舎なので亡くなった義父や義兄も土葬でした。
200年前くらいの江戸時代から存在し、20数体の遺骨が出てきました。
専門の業者の方は、掘りながら全て暗記しておられ、まだこの骨が出ていないと、全て見つかるまで掘ってくださいました。
夫はあちこちの挨拶回りに行っており、義弟が全ての骨をキレイに洗ってくれて、段ボール5箱分になりました。
規則通りに新しい墓に埋葬しましたが、大変な経験をしました。
そのお陰で、墓や遺骨を見ても恐怖感はありませんでした。
夫は「凄く勉強になる」と、私たちのルーツを知ることに興味津々でした。
出土した土器や装飾品などが陳列されています。
歴代の王の墓から発見された8基の甕棺からは、ガラスの管玉や銅剣など、高貴な身分を示す品々が出土しています。
当時の大陸や半島から列島に流入した文化は、レベルの高いもので人々は驚いたのではないかと思いました。
1基からは有柄細型銅剣とともに、見事なコバルトブルーのガラス管玉が79個分副葬されていました。
この副葬品の豪華さは、全国の他の遺跡を圧倒しており王墓の風格が感じられるそうです。
この管玉のレプリカも展示されていますが、コバルトブルーのその美しさが目に染み入りました。
とりわけ豪華な副葬品が出土した「1002号甕棺」をモデルに棺の内部が復元されました。
珠玉の「朱丹」「銅剣」「管玉」が、被葬者の副葬品として配されています。
今の木の棺桶の大きさに比べると、甕棺は大きいと感じました。
土の圧力もあるのに2000年も壊れないのも不思議な感じがします。
バスで「倉と市」「南のムラ」を周遊する
北墳丘墓を出て、すぐ左横のバス停でバスを待ちました。
20分ごとに周遊しているようです。
別の3グループの8人で乗り込みました。
出発して、すぐ右側に現在発掘して報道されている、現場のブルーシートが見えました。
最近、吉野ヶ里遺跡では10年ぶりに発掘調査を再開しました。
発掘調査地は、33年前から「謎のエリア」として注目されていた日吉神社境内地跡です。
佐賀県は「人骨や副葬品などは見つからず残念でしたが、石棺墓の調査から総合的に考えて有力者の墓であることが言える」と発表されたようです。
今後の発掘が楽しみです。
国内外の品々が取り引きされた「倉と市」を通過しました。
少し雨が激しくなりましたので、バスの中から見ました。
吉野ヶ里の国の交易の中心地で、盛大な市が開かれていた場所だそうです。
一般庶民の住居群「南のムラ」をバスが通過しました。
一般の人々が暮らしていたとされる場所で、のどかな雰囲気です。
一画にある「弥生くらし館」では、平日に土器の復元作業を見ることができるそうです。
「勾玉づくり体験」「火おこし体験」「鋳込み体験」も実施しているそうです。
園内は広いので循環バスを活用すると便利です。
今回の目的は、吉野ヶ里遺跡巡りですので、「古代の森ゾーン」「古代の原ゾーン」の見学や体験はしないで帰途に着きました。
弥生人の寿命は何歳くらいですか?
遺跡を見て古代で生きていくには、過酷な環境であると感じました。
私たち現代のシニアはとても耐えきれそうにありません。
フッと疑問に感じたのは、当時の平均寿命でした。
資料を調べましたところ、現在と比べると、ずいぶん短かったようです。
平均すると、40歳まで生きられなかったと考えられているそうです。
当時は、栄養状態も良くなく、病院などもありませんので、子供の死亡率が特に高かったようです。
吉野ヶ里の甕棺の4割が子供用であったそうです。
戦国時代の織田信長が「人間50年」と「敦盛」を歌っていますが、分かるような気がします。
現在の私たちは「人生100年時代」といっていますが、当時の過酷な環境を想いますと、豊かで恵まれ比べ物になりません。
2000年の間、治乱興亡はありましたが人類は豊かに繁栄しておりますことには感謝しかありません。
バスを降りて、歴史公園センター(東口)に帰りました。
少し時間があるので、展示室や売店を見たり、お庭の花々を鑑賞しました。
そしてタクシーに乗り「吉野ヶ里公園駅」に着き、キャリーバックを引き換えました。
長崎本線の次の目的地である肥前大浦(15:01発)に向かって出発しました。
吉野ヶ里公園駅(11:06着〜15:01発)の滞在時間は3時間55分でした。
4時間弱で大きな学びをいたしました。
ありがとうございました。
まとめ
私は「福岡・佐賀旅行」で、「吉野ヶ里遺跡」に見学に行くことを計画しました。
しかし、吉野ヶ里遺跡のことをほとんど知りません。
ザッと下記の6点くらいの、予備知識を得てから見学したいと思いました。
「吉野ヶ里遺跡」は佐賀県にあり、全長2.5kmの壕に囲まれた日本最大規模の「環壕集落跡」です。
弥生時代の、全時期の多数の住居跡、高床倉庫群跡、3,000基を超える甕棺墓、墳丘墓などが発掘され、国の「特別史跡」に指定されました。
「吉野ヶ里歴史公園」は、117haの広大な敷地に、物見櫓や竪穴住居など98棟の建物や集落を囲む環壕・城柵が復元され、最も栄えた3世紀ごろの様子が再現されています。
吉野ヶ里が邪馬台国だったという証拠は見つかっていません。
現在は、九州北部にあった複数の有力な「クニ」の一つではないかと言われています。
吉野ヶ里遺跡に住んだ人々は、弥生時代の全時期にわたります。
縄文時代から、この地域に人の定住が始まったと考えられています。
弥生時代前期に、吉野ヶ里の丘陵一帯に分散的に「ムラ」が誕生し「クニ」へと発展します。
中期に、首長を葬る「墳丘墓」や、多くの「甕棺墓列」も見られます。
後期に、国内最大級の環濠集落へと発展します。
古墳時代には、戦乱の世が治まり、平野で水田ができ、吉野ヶ里の集落は消滅します。
吉野ヶ里歴史公園の見どころを7点紹介します。
❶「古代貝汁御膳」1560円、❷「南内郭」王の暮らしぶりがわかる、❸「北内郭」吉野ヶ里の最重要地区、❹「甕棺墓列」素焼きの土器で作った棺の列、❺「北墳丘墓」歴代の王たちが眠る、❻「倉と市」国内外の品々が取り引きされた、❼「南のムラ」一般庶民の住居群です。
多くの見どころがありますので、「狙い」を絞って目的を成し遂げられることをお勧めします。
「狙い」が「遺跡の体感」であれば、①歴史公園センター(東口)を徒歩で出発→②「南内郭」の見学→③「北内郭」の見学→④「北墳丘墓」の見学→⑤バスに乗り「中のムラ」「倉と市」「南のムラ」を周遊する→⑥歴史公園センターに帰るコースが良いと思います。
当時の人々は、豊富な海の幸(魚・貝・甲殻類)、山の幸(穀物・野菜・動物・鳥)、加工食品(酒)を食していました。
現代と同じようにご馳走に恵まれ、美味しい食生活であったと思われます。
私も、ここのレストランで「古代貝汁御膳」をいただきましたが絶品でした。
有明産のアサリは味が濃く、海苔は香気が高く美味で、赤米のおにぎりも甘く優しい味でした。
吉野ヶ里遺跡のザッとした全体像を頭に入れて見学して周りました。
温故知新(ふるきをたずねてあたらしきをしる)という諺があります。
弥生時代を訪ねることで、これからの新しい時代を知ることができればいいな!と思いました。
古代、弥生時代の全時期の歴史、祭祀と政治、王と支配層と一般庶民の階層、ムラからクニへの拡大、戦いと防衛、リアルな衣食住、倉と市、埋葬、クニの消滅の様子を、ご当地で遺跡と復元されたもので体感しました。
現代も古代も、人間の生き様や感情には大差ないと感じました。
私たち人類は農業革命、産業革命、情報革命という社会構造革命を経験したと言われます。
農業革命は、狩猟と農業(食料の安定供給)を分化しました。
産業革命は、工業(機械化)と商業(流通)を農業に比肩する産業にしました。
情報革命は、リアル(モノ)社会に対しバーチャル(情報)社会を確立しました。
弥生時代には、農業革命の私たちの原点があるように感じました。
私たちは、この三つの革命を丸ごと包んで、加速度的に進化しているように感じます。
どこまで進化するか分からない次代の子孫は、無限の可能性を持っています。
新しい時代に向かうほど、人間の進化の原点を知ることが大切と感じました。
吉野ヶ里遺跡の様々な遺物、遺跡、遺構を体感して、人々の力強く生きていく姿に感動しました。
古代遺跡を発掘し、保存し、学ばせてくださいます方々に心から感謝いたします。
ありがとうございました。
私は、6/20〜23まで、「福岡・佐賀」を旅しました。
「九州国立博物館見どころ【体験談】アジア史的観点から日本文化を見る」
また、5/23〜25まで、「沖縄」を旅しました。
「沖縄県立博物館の見学【シニア夫婦体験談】旅人として歴史観を深める」
を記しましたので、興味のある方はご覧ください。
皆さまの旅のご参考になれば幸いです。
最後までお読みいただきましてありがとうございました。
See you(^^♪
コメント