みなさま、こんにちは(^^♪
下関に観光に来ました。
「春帆楼」でふぐのランチをいただきました。
そして「日清講和記念館」を見学しました。
次に隣にある「安徳天皇陵」「赤間神宮」にお参りをしました。
下関の歴史的観光資源の重厚さに感動しました。
次に近くにある「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている「亀山八幡宮」に行きたいと思いました。
明治維新の列強への砲台跡や、伊藤博文にまつわるお話に興味を抱きました。
お参りに先立ち、上記の基本的なことを調べました。
❶亀山八幡宮の歴史を教えてください?
亀山八幡宮の創建は、享保年間の「防長社寺由来」によれば、平安時代前期859年(貞観元年)に、行教(僧侶)が宇佐八幡宮(大分県)のご分霊を石清水(京都)に勧請する途中、当時は島だった亀山に碇泊したことが始まりです。
そのとき、「この山は清浄な地なので、しばらく祀ってから先へ進んでほしい」と神託があったため、亀山に社殿が設けられ祭祀されたのが起源です。
❷亀山八幡宮の砲台跡について教えて下さい?
江戸末期、開国を迫る諸外国に対して、長州藩は尊王攘夷を掲げ、境内と市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えました。
文久3年(1863)、久坂玄瑞の指揮でアメリカ商船に発射され、米仏蘭を相手に馬関攘夷戦の火蓋が切られました。
NHKの大河ドラマ「花燃ゆ」で、久坂玄瑞が、外国船に最初に大砲を撃った攘夷決行の場所が「亀山砲台跡地」なのです。
西洋列強の植民地政策に対抗するために、長州藩士が命懸けで「近代日本の幕開けを告げる第一弾」の、攘夷の砲筒を放った場所と言っても過言ではありません。
❸亀山八幡宮と伊藤博文の縁を教えてください。
「伊藤博文公夫妻史跡・お亀茶屋跡」と看板に記されています。
幕末の1865年に、境内の中にある「お亀茶屋」のお茶を接待する娘に「木田梅子」がいました。
長府藩の刺客に追われた伊藤博文を、梅子は機転を気かし、かくまい助けました。
その後、梅子は父の借金のカタに身売りされ、芸妓見習いになります。
梅子は博文の子を身ごもっており、博文は妻と離婚を条件に、梅子を身請けします。
梅子は夫を支え、木戸孝允夫人の松子と並んで「良妻賢母の鑑」と言われました。
博文は女遊びが酷かったのですが、梅子は夫の女性関係には口を出さず、芸者たちが帰る時は玄関まで送り、土産を持たせたそうです。
伊藤博文が見初め、妻に迎えた日本最初のファーストレディは、八幡宮の茶屋にいた梅子でした。
❹亀山八幡宮の見どころは何ですか?
「お亀明神、お亀イチョウ」は、亀山八幡宮のある島を陸続きにする埋め立ての「人柱」として海峡に身を投じたのが、アバタ顔の遊女「お亀」でした。
お亀の功績を讃えて境内に植えたのが「お亀イチョウ」です。
見どころは、「日本一の鳥居(御影石製)と挟まったボール」「日本一のふくの像」「床屋発祥の地碑」「金子みすゞ詩碑」「山陽道の起点の碑」などがあります。
亀山八幡宮に着く(体験談)
赤間神宮から7分ほど唐戸市場に向かって歩くと(500m)、右側に「亀山八幡宮」の鳥居が見えます。
この「第一の鳥居」は、御影石製では日本最大の鳥居だそうです。
鳥居の上にある、「亀山宮」の額の「山」の左下の部分に白いボールが挟まっています。
このボールは昭和33年から60年以上も挟まったままだそうです。
近くの人々が野球をしていてボールがスッポリとハマったそうです。
これを「げんかつぎ」に、高校球児たちが必勝祈願をし、市内の下関商業や早鞆高校が春の選抜で優勝、夏に準優勝を遂げました。
このことから必勝祈願や、長年落ちないボールにあやかり、受験の神様とも言われているそうです。
神前でお参りする
階段を登り、そこから数段登りますと拝殿があります。
昔、宇佐の八幡様にお参りしたように、お賽銭を入れて、「一礼二拍手一礼」をしました。
亀山八幡宮の主祭神は、応神天皇、神功皇后(応神天皇の母)、仲哀天皇(応神天皇の父)、仁徳天皇(応神天皇の子)です。
応神天皇は武運、出世、開運、神功皇后は安産、家内安全、学業成就のご利益があるそうです。
そのほか、商売繁盛、事業繁栄、航海安全、受験合格、身体健康、病気平癒、縁結びなど幅広くご利益があるとのことです。
「亀山砲台跡」の石碑から海峡を眺める
「亀山砲台跡」という石碑がありました。
その横に説明を書いた看板がありました。
1863.5.11に亀山砲台から、アメリカ商船に向けて砲撃が始まりました。
同年6.1に、藩主自ら亀山八幡宮に「夷敵降伏」を祈願しました。
敵船の弾は楼門をかすめただけで社殿や兵に損傷はありませんでした。
人々は「八幡大神の神意なり」と讃えて、「弾除八幡様」と称えました。
翌年8月の、4カ国(米、英、仏、蘭)連合艦隊襲来の「馬関戦争」により攘夷戦は幕を閉じました。
幕末騒乱、開国、尊皇討幕、大政奉還を経て明治維新(近代化改革)へと急速に時が流れました。
亀山砲台は、まさに近代日本の幕開けを告げる初弾を発砲したのです。
この地に立って海峡を眺めてみると、当時の西洋列強の軍船の隊員の心や、数百年に一度の国難に対して迎え撃つ長州藩の人々の心を思うと、その命懸けの強烈な切迫さは想像もつきません。
NH Kの「花燃ゆ」の久坂玄瑞役の東出昌大さんの迫真の演技を思い出しますが、当時の人々の憂国の純粋な覚悟は凄まじいものだったと思います。
海峡の流れを見ると、当時の若き草莽の無欲無限の赤心に胸が熱くなります。
この歴史の現実から目を背けることなく、私たちは歴史に学び未来を生きなければなりません。
このご当地に立てたことを、背筋を伸ばして感謝します。
「伊藤博文公夫妻史跡」の看板を見て思いを馳せる
砲台跡の横に、海峡を前にして「伊藤博文公夫妻史跡・お亀茶屋跡」の看板がありました。
幕末動乱の中、梅子は刺客に追われる博文を咄嗟の機転で救います。
そして二人は恋に落ちます。
しかし博文には、すでに親の決めた妻がいたのです。
悩んだ末に博文は離婚し、梅子との結婚を選びます。
新政府で博文は大出世し、日本の近代化に邁進します。
夫を支えるため梅子は西洋文明を猛勉強します。
一意専心、英語やダンスに打ち込みます。
そして博文が日本最初の総理大臣に就任しました。
西洋式の舞踏会が開かれ夫人として役目を果たします。
博文が大好きだったものは酒、たばこ、女性でした。
博文は何人も愛人をもち、自宅にまで連れて来ました。
梅子は動じることなく、彼女たちを親身にお世話しました。
梅子の心中はどのようでしたでしょうか。
時代の違いでしょうか。
歴史の転換機に多くの価値観が崩壊し、多くの人々が死んでいきます。
明治三傑の、西郷も木戸も大久保も同時期に死にます。
孝允も「お松」に、龍馬も「お龍」の機転に救われます。
「梅子」も芸者の見習いに身売りされます。
博文に身請けされなければ、芸者の身で生きていきます。
男の生死を懸けた闘いや、女の悲哀を沢山肌で感じたことでしょう。
明日とも知れない時代に、全てを呑み込んで今を生き切っていったのでしょうか。
博文がハルビンで暗殺された時に、涙も流さず歌人・梅子は歌いました。
「国のため 光をそへて ゆきましし 君とし思へど 悲しかりけり」
伊藤博文と梅子の原点の地に立ち、当時を思い先人のご苦労に感謝いたします。
亀山八幡宮のご案内
まとめ
「関の氏神さま」「亀山さま」と親しまれている「亀山八幡宮」に行きたいと思い、お参りに先立ち、基本的なことを調べました。
亀山八幡宮は、859年に宇佐八幡のご分霊を石清水に勧請する途中、当地に碇泊したことが始まりです。
そのときに、神託があり、亀山に社殿が設けられ祭祀されたのが起源です。
開国を迫る諸外国に対して、長州藩は境内と市内各地に砲台を築き攘夷戦に備えました。
1863年、アメリカ商船に砲撃し、米仏蘭を相手に馬関攘夷戦の火蓋が切られました。
1865年に、境内の中にある「お亀茶屋」に木田梅子がいました。
刺客に追われた博文を、梅子は機転を気かし助けたのが縁で二人は結婚します。
見どころは、「お亀明神、お亀イチョウ」「日本一の鳥居(御影石製)と挟まったボール」「日本一のふくの像」「床屋発祥の地碑」「金子みすゞ詩碑」「山陽道の起点の碑」などがあります。
関門海峡を下関側から見ると、日本の行く末を左右する歴史の地政学的なうねりが甦ってきます。
亀山砲台から西洋列強に大砲を放つということの狂気、紆余曲折を経て幕末の動乱が日本中を駆け巡り、明治維新に到達し、近代化が成し遂げられて行きます。
個人は時代に翻弄されます、
久坂玄瑞、木戸孝允、高杉晋作、伊藤博文などの長州藩士の命懸けの心意気と合わせて、「花燃ゆ」の文(吉田松陰の妹)や梅子(博文の継妻)やミチ(春帆楼の女将)などの、明治の女性の気骨な生き様にも心打たれました。
亀山八幡宮という歴史の舞台のご当地に身を置き、海峡の波のうねりを見つめながら当時を偲び心躍らせました。
この下関旅行の「総集編」として、『下関観光おすすめ【シニア夫婦体験】ふぐ料理・瓦そば1泊2日総集編』を書きました。
内容は、「スケジュール」「持ち物一覧」「旅行費用総額55,674円の明細」「観光地・食処の8体験談」を記しましたので、興味のあられる方はご覧ください。
シニア夫婦のアクシデントや失敗がありましたが満足な旅ができました。
ありがとうございました。
See you(^^♪
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